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DIALOGUE

TAKEDA KAHEI SHOTEN

竹田嘉兵衛商店

名古屋市緑区有松にある竹田嘉兵衛商店は、有松・鳴海絞りの開祖・竹田 庄九郎の流れを汲む会社として、慶長13年(1608年)に創業し、東海道の開通から400年以上もの歴史を持つ企業です。名古屋市の文化財にも指定されている歴史ある建物にて、竹田嘉兵衛商店に27年勤め、今回のプロジェクトの責任者でもある浦田氏にお話を伺いました。

有松・鳴海絞の歴史は400年以上あると伺いました。今でこそ、有松絞りの会社はいくつかありますが竹田さんがその中でも一番古い歴史をお持ちということでしょうか。

創業は1608年です。うちの会長のずっとご先祖さんが、有松絞りの開祖・竹田庄九郎さんで、その血筋は町全体でも、もうこの竹田家しかないんです。だから、まあ一番古いといえば古いですよね。1608年に町ができていますので、厳密には414年になります。

こちらの建物も素晴らしいですよね。創業当時からのものですか。どのような歴史があるのか教えてください。

この建物自体は天明時代に一度火災で町ごと焼けているんですよ。なので、古い建物のところで240年ですかね。表の通りは200年ぐらいだと聞いていますけど。今私たちがいるこの建物自体は名古屋市の文化財に指定されています。何度か増築していますが、一番新しい部屋で100年前、大正時代のものです。

有松絞りというのは、この名古屋の有松地域全体で作られている伝統産業で、基本的に全ての工程を分業で作られていると伺いました。竹田嘉兵衛商店さんでは、具体的にはどのように製品作りをされているのでしょうか?

基本的な流れとしては、うちが総責任者として作るものを企画して、実際に動く人は「影師(かげし)」さんですね。まず、うちが図案師さんと図案を考えて、それを表現するのが影師さんのポジションです。うちがこういうものを作りたいってオーダーしたものを、図案を起こして、型を彫って、それを絵刷りして。それをまた色々な絞り屋さんに持っていって、また回収して染屋さんに持っていって回収して、で、糸抜き屋さんに持っていって、最後の仕上げはここでやるという手順です。

そうやってそれぞれの職人さんの間に入る影師さんという役割の人が従来はいたいたんですよ。でも今は、もうそういうシステムもほとんどなくなりまして、独自で色々やったりしています。昔はここが頂点で、仕事を分業化して色々なところで請け負ってもらって、その集合体の町が有松という町でした。

今伺ったところで、作業工程がたくさんあると思うのですが、それぞれどんな工程、技術があるのでしょうか。

まず、図案を考える図案師さんがいて、それに合わせて型を彫るんです。型は何のために彫るかっていうと、生地に対してここを絞りなさいよっていう指示をする点をつけるんです。型を布に当てて、水に溶ける青花染料で絵刷りします。絵が染まった部分を今度は絞りの職人さんに持って行って、それでやっと絞りの作業になりますね。数ヶ月して絞りの作業が終わったら、また回収して、今度は染め屋さんに持っていって、この色で染めてくださいとお願いします。染め上がったものを今度回収してきて、今度は糸抜き屋さん。次は湯のし屋さんって言って、縮んだ布に幅を出すために蒸気を当ててて伸ばす作業をやります。それで最後に細かい整理をする整理屋さん。それで終了になる。大体8工程ぐらいあるのかな。

各工程の職人さんの会社は今も全部あるんですか。

もう糸抜き屋さんがなくなっちゃったので、今はここでやっています。あとは絹の染めだけは京都に出しています。昔は有松にも1軒あったんだけど、もう今、その職人さんが90歳以上ですから、80いくつの時に辞めちゃって、それで泣く泣くね。

それを継がれる方とか、新しくやられる方っていうのはいらっしゃらない状況ということですか。

いないです。結局、需要が少なくなって、食べていけないんです。浴衣の生産量で言うと、ピーク時で年間20万反あったんです。それが今は2万反を切っています。

和装から洋装に時代が変化したことが大きな要因でしょうか。

和装から洋装に代わったという時代的なこともありますが、有松ではそういう風なシフトチェンジを試みてますよね。形状記の技術が生み出されて、それからまたちょっと新しい絞りの形なんかもできてきた中で、特にそっちに拍車がかかって、皆さん洋装だったり、雑貨類だったり、それぞれの味を出しながら色々なものづくりを始めたから、今後、そっちの方向に全体がシフトチェンジしてくのかな、なんて思いますね。

ただし、やはり着物が原点だから、着物は続けないといけないっていう想いはあります。
うちは、どれだけ売り上げが下がろうが、需要がなくなろうが、そこはやり続けないと。着物がなくなって、雑貨とか洋品だけになったら、それは、価値観が全然なくなっちゃうもんだと思う。だから、うちが着物をやることっていう意義っていうのは、すごく大きなものなんです。着物という原点があるからこそ、変化ができるんだと思っています。

現在も、竹田嘉兵衛商店さんの代表的な商品は着物ということでしょうか。

はい。今もうちは着物が主だし、売り上げのほとんどが着物です。

一着の着物を作るのに、関わっている職人さんは何名くらいですか。

先ほど言った通り、8工程くらいあるので、それだけでも8人ですね。で、絞りは基本的に昔から「一人一芸」と言いまして、1つの絞りに対して、スペシャリストの職人さんがいて、着物のデザインの中に5種類の絞り技法が入りましたとなると、絞りだけで5人かかるわけですよ。そうなるとプラス5になるんで、13人ぐらいの職人さんが携わるっていう感じですね。大体は最低でも10人ぐらいは携わっています。

そうなるとやはり、値段的にも高価なものになりますね。

基本的にはそうです。だけど現状、そこをしっかりとっちゃうと、今度は流通しなくなっちゃうんです。これは商売の話ですが、その辺のバランスですよね。
ちょっと前は、工賃を下げるために海外に仕事を出していた時期もあります。中国に絞り工場を作って、ある程度技術を共有した中で、物作りを海外に全部出しちゃった。それもこの町自体の衰退を招いた原因ではあるんです。ただし、流通させようと思うと、工賃を下げないといけなかったり、生産量も上げないといけないから、海外に出したわけで、それがいいか悪いかっていうのは、判断しづらいんですけど。

だけど、今は有松という町全体が「メイドイン有松」にこだわろうという流れになってきています。なので、浴衣も、結構な割合を今、国産で作ろうとしています。国産になるとやっぱり高いんだけれども、実際はそっちが売れてたりするんです。

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